浅草中心部の伝法院通りを歩くと、軒先に下駄や草履を並べた店が目に入った。四角や小判型の台に、色とりどりの鼻緒がついている。眺めるだけでも楽しい。
年季の入った木製の看板には、これまた年季の入った字体で「和装履物處」と書いてある。なかなか無駄の無い店のコンセプトである。
下駄を買いに下駄屋に来たものの、急に草履が欲しくなってしまい、「いやー、ウチは下駄しかおいてないんだよ」なんて頑固オヤジに白い目をされて、逃げるように下駄屋を出て、草履屋を探す必要もない。懐古趣味に目覚め、下駄でも草履でも「和」な感じの履物が欲しくなった、幼気な乙女たちを、一網打尽にこの店に誘い込もうという作戦に違いないという観点から見ても、説得力がある。
創業は1912年の大正元年と記されている。まさに大正デモクラシーの真っ只中。血気盛んな知識人や文化人が、この店の下駄でカツカツッと街を走り回り、政治談義に口角泡を飛ばしていたに違いない。と、勝手な想像で盛り上がる。そんな歴史の滋味がさりげなく散在しているのも、浅草の街の魅力だ。なお、コロナ時代においては、いくら議論に白熱しても、口角泡を飛ばしてはいけません。皆さん、マスクをしましょう。
さて、これだけの月日に耐えてきた店である。白髪とひげを仙人にように伸ばし放題にした頑固爺さんがいるにちがいない。ここは、油断してはならないと気を引き締めて、店の様子をうかがった。
店内に木の香りがぷーんと漂う。おそらく、下駄の台に使われている桐の香りだ。入り口のすぐ右手、銭湯の番台みたいな位置に、番台ほどは高くはない席があり、職人らしき男性が座っていた。意外にも仙人は見当たらず、どうやら店の奥でパソコンを見ていた和服の似合うきれいな女性が、この店のボスのようだった。
聞けば、この方が今の社長さんで4代目。女将さんであった。店を継いですでに10年。考えてみれば、下駄仙人が、オギャアと生まれた瞬間に店を創業したとしても、今年で109歳になっているはずだ。ギネスブックの登録か本気で仙人を目指す気がないなら、代替わりしていて当然だった。
履物店「辻屋本店」の目玉の一つは、自分だけの下駄を作ってくれるサービスという。客が好みの下駄の台と鼻緒を選ぶと、職人が目の前でそれを組み合わせてくれる。今、流行りのカスタマイズである。
工芸品という技術的な優位と浅草というブランド力があるわけだが、その上に胡座をかいてはいない。女将さんが店のホームページにブログを書いたり、店の3階にスタジオを作ってユーチューブ配信をしたりと、情報発信に余念がない。コロナ禍にあって、リモート来店という試みも始めたという。
「浅草の良い所は、なんでも受け入れる懐の広さ。新しいものとかに対してのこだわりというものがなくて、意外とおじさんたちも、ああやってみよう っていう感じで入ってきてくれる」
そう笑顔を見せる女将さん自身が、新しいモノ好きのようだ。
こうした努力も全ては商売のため。栄枯盛衰は世の常で、伝統ある店や職人を支えていくのは、楽ばかりではなかったはずだが、女将さんは浅草での商売が楽しくて、「辛さは全然カバーできるくらい」と明るく言う。
「浅草で商売やっているって本当に楽しいなと思います。多分浅草じゃなきゃやってなかったと思うぐらい。この街が好きだし、街の皆さんと一緒に何かしたり、街の一員としてここでお店をやるっていうのは本当に楽しい」
商品は千数百円のものもあり、思ったより高くはない。私でも手が届きそうだ。おしゃれな下駄で、カランコロンと歩けば、頭の中だけでは勝手に文豪になれそうだ。
もちろん全く手が届きそうもない高級品もある。一番高い商品というのは、なんと50万円。子供が蹴り飛ばして天気予報に使ったら、温厚な私でもさすがに発狂する。これは店頭のウインドーに飾ってあるが、私にはなんの変哲もない、ただの下駄に見えた。天気予報にも使いにくそうだ。
ところが、女将さんによれば、何やらとても古くて値打ちのある品といい、本当は売りたくないそうだ。以前、20数万円の値段をつけたら、意外にも売れてしまったそうだ。酔狂な人がいたものである。
「だから50万円にしました、うふふ」
2階で女将さんの話を聞いていると、1階からコン、コン、コン、と軽やかで心地よい音が聞こえてきた。木を打つ音だ。
自分だけの下駄をあつらえようという幸せ者が来店したようだった。
(写真・文 宮崎紀秀/浅草チャンネル編集長)